11月21日

 ヨシュア記は主なる神と人との関係について以下の三点で光を与えています。
 (イ)神の忠実。イスラエルは約束の地の入手を神から約束されていました。一時、この神の目的は彼らの不服従の罪の故に挫折したかのように見えました。しかし主のご計画はカナン征服において達成、成就したのです。その経過を物語っています。
 (ロ)神の聖。これが土着民、先住部族に対する神のさばきのうちに見られます。アモリ人の不義はその極に達したので、神はイスラエルを用いてこれを罰せられました。しかし神の聖は、他をさばく為に用いられる者もまた、清くなければならないという主張に明確に認められます。神はたびたびこれを聖戦であると言われています。
 (ハ)神の救い。ヨシュアという名は「主は救い」の意味をもち、すべての名にまさる名、「イエス」のへブル語読みです。従って、ヨシュアをイエスのひな型ととり、ヨシュア記は、キリストにある私たちの勝利の生活を描いていると見て何らさしつかえありません。またヨルダン渡河は、主が私たちを、祝福が充満せる生活に導き入れて下さることを象徴しているものともとれます。「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」(ヘブル四・一)