11月17日

 「…セムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」(創世記九・二三)
 現代はともすると人の欠点や短所、弱さ、失敗を覆うどころか暴(ばく)露し、それを責め立て、面白がり、はやし立てる傾向が強い時代ではないでしょうか。
 聖書の中にノアの三人の息子の物語がでてきます。ノアは立派な信仰者でした。その信仰のゆえに神のみ告げを受けて箱舟を造り、神のさばきを逃れた人です。しかし、どんな偉大な人物にも落度はあるものです。晩年のノアは、こともあろうにぶどう酒に酔っ払って裸で天幕のなかで寝てしまいました。いわばぶざまな格好をさらけだしてしまったのです。それを知ったセムとヤペテの二人の息子は、父親の醜態を見ないようにうしろ向きに進んで、毛布で覆ったのでした。すなわち、その父の失敗を補い、繕 (つくろ)うようにしていったのです。決してそのエラーをあげつらうような事をしませんでした。
 「(愛は)すべてをがまんし、」(新改訳)=「愛はおおよそ事包み」(文語訳、明治三八年発行)コリント人への手紙第一、一三・七の言葉のように対処したいものです。イエスはその血によるなだめの供え物としてご自分を公に捧げられました(ローマ三・二五)。この「なだめ」の意味は覆う(おおう)です。イエスも私たちの罪を覆い赦して下さるのです。