11月12日

 イエス・キリストは、想像的空想、仮定の人物ではありません。又、単に人のように見えたのでもなく、彼は明確に人の子として聖霊によって処女マリヤから、へロデ王の時代にユダヤの地べツレへムで生まれられたのです(マタイ一・一八以下、二・一)。そして両親の下で成長し、強くなり、知恵に満ち、十二歳の時にはエルサレムの都に上られました(ルカ二・四〇~四二)。
 その後三十歳にして公生涯に入り、人々に教え、共に飲食し、時には空腹にもなられ(マルコ一一・一二)疲れて(ヨハネ四・六)眠り(ルカ八・二三)給うたのです。
 また祈り、病人の手を取り(マルコ一・三一)悪霊を追い出し(マルコ一・三四)エルサレムの都の為に泣き(ルカ一九・四一)ラザロのために涙を流し(ヨハネ一一・三五)ゲッセマネでは恐れもだえ、悲しみ苦闘されたのです。最期には遂に人類の贖罪の為、自らむち打たれ(マルコ一五・一五)いばらの冠をかぶせられ、わき腹をやりで突き刺され(ヨハネ一九・三四)死なれたのです。歴史と時間の中に人として生きられたイエスを否定する者ではなく、この方を神の御ひとり子、全人類の罪からの贖い主として受け入れるものとなりたいものです。なお、クリスチャンが十字架を教会や家に飾りつけるのは、自分に対する「神の愛」を覚え感謝するためで、決して拝む為ではありません。