10月4日

 「平和」の言葉は一般的にはおおよそ戦争のない時期を表わしていますが、聖書のシャロームは、しばしば神の真実や契約などの言葉と共に用いられ、平和な時期というよりむしろ平和な「関係」を示す言葉です。
 エペソ書でも平和は、平安という語と共に二・一四、一五~一七、及び一・二~四・三、六・一五、二三、と大変多く使われています。神と人、人と人との関係を語っています。さらにこの手紙で、平和が人格化した形で宣言されています。「キリストこそ私たちの平和」(エペソ二・一四)とあります。平和とキリストとの同一視は、パウロの手紙ではこの箇所だけに見られます。
 キリストが私たちの平和であるとは、続く文章の三つの分詞によつて説明されています。すなわち、二つのものを一つにする、隔ての壁を打ち壊す、敵意を廃棄する、の三つです。第一は神的領域と人間の領域が一つにされること。第二は人間世界におけるあらゆる分け隔て、境の壁を打ち破ること、第三はそうした原因を作っている「敵意」を破り捨て、解消させる方こそ平和のキリストだというのです。
 彼は私たちを「新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するため」(同二・一五)に、敵意をご自分の肉によって廃棄された方、すなわち、敵意を十字架によって葬り去られた方なのです(同二・一六)。この方にいよいよ目を向けていきましょう。