10月22日

 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」だと、ヘブル一一・一に定義されています。では何をクリスチャンは望むのでしょうか。
 もちろん世俗の中に生きているのですから、商売繁盛、家内安全、無病息災、受験合格、立身出世、子宝一杯などあれやこれや願わない者は一人もいません。キリスト者もノンクリスチャンと同様に様々良き事、あれやこれや願望するでしょう。しかし、それだけが全てではありません。受洗者続出、教会成長とリバイバル、信徒倍増、枝教会の誕生、家族全員の救いの実現など、霊的、信仰的な事柄を特に希望します。
 けれどもさらに望むのは、神の国の到来、天国の望み、永遠の命の付与、聖化の完成、主イエスとの再会、神の御国での報償など、終末への望みを深く確信するものでなければなりません。そしてこれら特に終末への約束は神からのものだということです。心より感謝したいですね。
 ところでそのような死後の世界で与えられる様々な祝福も単なる「思いこみ」ではないか、という疑問があります。しかし、信仰、信心とは、客観的な事実、今、目の前に見る事実とは、無関係ということです。不可視であるからこそ信じていくのがクリスチャンです。聖書の約束だからこそ徹底して信じ、確信してまいります。