10月16日

 かつてエゼキエルが神からの幻を見たのは、異郷の地バビロンのケバル川のほとりでした。自分も捕虜として連れて行かれ、寂しい思いをしている時でした。時はBC五九二年七月頃と言われます。しかしながらバビロンの捕囚のような大事件は世界の歴史におきましても滅多にない事であります。そのようなイスラエルの栄光は全く地に落ちてしまって、ぐうの音も出ない時であります。
 神殿は壊されてしまうし、主の宮は汚されるし、文字通り四面楚歌(しめんそか)の中で幻を見せられました。「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。」(エゼキエル一・四)これらの表現は神の臨在を現わすものです。
 さらに「私が見ると…その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた」(同一・二七、二八)とありますが、これはまさに神の栄光を表す御言葉です。主の栄光は神の臨在の象徴でもあります。
 主のみ座の光景は不浄な輝きの中に現れています。神の栄光の輝きは、いつでもどこでも現されます。特に暗ければ暗いほどに、いよいよまさって光り輝きます。私たちも今日的な霊的、信仰的暗闇の中で、主の栄光を見、主の輝きをキャッチして希望を持って進みたいものです。