9月8日

 主の祈りの第五は過去に犯した罪の赦しに関するもので(マタイ六・一二)、続く第六の祈りは再び新しい罪を犯すことのないように、試みに合わせないで下さいと祈る必要性を教えています(同一三節)。
 私たちキリスト者といえども弱い存在。原語「パイラスモス」は試みとか誘惑という二つの意味をもつ語。キリスト様と違って人間はありとあらゆる誘惑に負けやすい者達。金銭に弱い、性欲に弱い、様々な苦しみに弱い。すぐに悲鳴を上げ、果ては死にたくなる。
 サタンは試みる者(マタイ四・三)として姿、形を変えて私たちに迫ってきます。誘惑者として接近してきます。何とかしてキリストから引き離そうとします。甘い声をもって、恐ろしい声をもって。時には油断させ、気づいた時には教会からも聖書からも、一切キリスト教的なものに無縁になっていたということさえ起きます。
 しかしながら人が誘惑にあった時、神によって誘惑されたと言ってはいけません(ヤコブ一・一三)。神は人を誘惑されたり、人を倒れさせようとしてつまずきの石をその前に置かれることは決してありません。誘惑するのは悪魔です。また自分の欲に引かれて誘惑されるのです。いずれにしてもパイラスモス(試み、誘惑)に無力なだけ、真剣に祈って主に全面的にお頼りしてゆきたいものです。ただ時折、主である神は愛するわが子を訓練、鍛錬するために試練に合わせなさる事は皆無ではありません(ヤコブ一・二)。