9月7日

 キリストは目印として光っていて下さいます。灯台が岬の突端で光っているように。また、高層ビルの屋上であるいは大煙突の頂点で、ライトがよく点滅しているように。飛行場の滑走路両側でやはり光が等間隔で灯っているように。全て衝突の危険を知らせ、対象物の存在位置を認識させるものとして必要な光であります。
 キリストはご自分の所に人々が来て救われるようにと、自ら目印たらんとしてこの世に現れて光り続けて下さっています。隠れておいでになるのではありません。ヨハネ一・五では、「光はやみの中に輝いている」としるされています。この光は当然ながらイエス・キリストであります。ところがこの世の「暗闇は光を理解しなかった」(五節、新共同訳)のです。この状況は二一世紀の現在も厳然と続いているのです。
 しかし選ばれてクリスチャンとされた私たちはこの光のキリストに従っていく時、私たちは決して闇の中、罪人の道を、また、永遠への滅びの道程を歩むことがなく、むしろ命の源、光の源であるキリスト御自身をもつことができるのです。人生不可解ではありません。何のために生まれ、何のために生きているのか、その目的は光であるキリストに従う時、明白になります。クリスチャンは世において、主イエスを紹介します。目印として生きる者でもあります。