9月11日

 「何の為に生まれてきたのか」「なぜ生きて行かねばならないのか」人間はこうした問題に一度は思い悩むものです。聖書は明確に人生の意義、目標を示しているのです。
 けれども一高の秀才、藤村操が聖書を信じる事もなく一九〇三年(明治三六)六月、日光華厳の滝で「巌頭の感」を残し滝に飛びこんで自殺した時には世に大きな衝撃を与えました。その時の有名な辞世の句。「悠々たるかな天壊、凌々たるかな古今、われ五尺の小躯(しょうく)をもって、この大を計らんとす。ホレーショの哲学、何のオーソリティ(権威)に価するものぞ、万有の真相一言にして尽くす(悉す)、いわく〝不可解〟。われこの恨みを抱いて煩悶終に(遂に)死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る。大いなる悲観は、大いなる楽観に一致するを」と。
 最近の日本では年間三万人以上の自殺者が出ているのは、人生の行先に光が見えない、希望が持てない心の闇、虚無感に囚われているからだと思われます。イエス・キリストは「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ八・一二)と仰せられ、今日もキリストは光として私達の心の中に輝いて下さいます。まだ暑さは残っていますがこの初秋の良い季節にキリスト様を受け入れ信じ、希望を天国において力強く前進しようではありませんか。