9月1日

 ヘブル書四・一には神の安息に入れないような事のないように注意しようと、記されています。そのために神をおそれる心を持とうではありませんか、とも勧められています。しかし、クリスチャンのもつ恐れは、仕事から逃避させるものではなく、また活動を停止させる麻痺状態をつくり出すものでもありません。この恐れはクリスチャンの持つあらゆる力を結集し、真に価値あるものを得ようとの努力を生み出すものです(バークレー)。
 現代の私たちにもやがて訪れる永遠の神の安息の地、天国に入る約束が与えられているのですから、不信仰を起こして入り損なうことのない様にしたいものです。万が一にもこれに入れない様なことのないようにと、一節で注意をよびかけています。
 さて、言葉というものは、どんなに尊く価値があっても、それを聞く人が信仰によって受けいれなければ何の役にもたちません。「その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。」(ヘブル四・二)聞き方にもいろいろあります。無関心、批判的、懐疑的、軽蔑的、興味のない聞き方などです。大切なのは熱心に信仰的態度を示して聞く事です。神の安息の約束の言葉は、人間がそれに命をかけ、それによって全生活が支配されるべきものであります。今日神のみ声を聞いたら、(聖書の言葉を通して)心をかたくなにせず、従順に信じて神の安息に入りたいものです(同上三・一五)。