8月24日

 天の神は、車を二台もっている人間を、全く車をもたない人間よりも、持っているという理由で高く見給うということは、絶対ありません。また逆にその人間がさらに普通の学位とか博士号を持っているからといって、とくに彼を愛し給うことはないと確信いたします。換言すれば、キリスト教の本質は、人間自身が作ったあらゆる差別というものを打ち壊して、等しく見ていきましょうということなのです。
 今回(一九九六年)のアトランタオリンピック会場には、黒人の人たちの住む町の近くにありながら、殆ど彼らの姿が見えないのはどういう事かと、新聞記者が疑問をなげかけていました。こうした現象は白人が黒人を差別していなければいいのですが、人間はすぐ他者より優位に立とうとして差別し排斥し、平等に扱おうとしない、またその視点に立てない弱さ、罪深さがあります。しかし人間世界には、いくら機会を均等にしても権利を平等にしてもまた、たとえ差別を撤廃したとしても各人の能力の違い、境遇における違いなどはどうすることもできません。
 けれどもこの違いを互いに認め合い、相違を越えて愛し合う力をイエスから吸収していかねばなりません。福音伝達の第一は、キリストが「へだてのない心で人間を見、救おうとしていて下さる」事を伝えるにあります。その気持ちで私達もまず人に対応していきましょう(ヤコブ二・一~九)。