8月19日

 「弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」(ルカ九・四六)キリスト者の交わりも、ともすると、いつでも必ずと言ってよいほど、互いに観察し、批判し、品定めをし始めることが多いのではないでしょうか。「偉い」「大きい」「立派」「成功している」か、そうでないかなど互いが比較して、優越感か劣等感かあるいは、あきらめの境地に入るかのいずれかでありましょう。  比較することによって『議論が始まった』のです。これは交わりを破壊するのに十分であります。ですから、初めからこのような危険な敵に注意して、これを拒絶することが、いずれのキリスト者の交わりにとっても、ある意味でそれは生死をかけた重要なこととなるのです。そこのところでぐずぐずしていてはいけません。なぜなら、他人と出会う最初の瞬間から、人間は他人に対して自分が優位に立とうとするからです。
 すなわち比較しあうことが自然発生的に生じているということです。ということは、人間がイエス以外に目を向けている間は、どこまでいつても優越感や劣等感から完全に解放されることはないからです。ですから、相違は比較し相競うべきものではなくて、認め合い、尊重し、徳を高め合うべきもの(ローマ一五・二)というレベルで、交わりの破壊要素を取り除いていきたいものです。