8月18日

 初代原始キリスト教時代、ペテロとヨハネが午後三時の祈りの時間に宮に上っていった時のお話(使徒三・一)。ペテロは生まれつき足のきかない男に対して「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って奇跡を起こしています(使徒三・六~八)。
 現代においてもそのような奇跡は確かにあちこちで起きています。わたし長屋も若い頃ひどい蓄膿症がただ一回の牧師先生のお祈りで癒された経験を持っています。このように不可能と思えることが現実となった時、私たちは奇跡と呼んでいます。けれどもこの肉体的な癒しは必ずしも一〇〇%起きる訳ではありません。ある人はいやされ、他方ではいやされないままで病苦を背負って生きて行かねばなりません。
 祈っても願っても癒されず、いわゆる身体障害者手帳を持参している人々は、 世に何万とおられる訳です。しかし、ここで 一番大切なことは、表面、外側の状況がどのようであれ、聖書の神をわが内に受容する時、また違った意味で奇跡が起きるのです。その人は罪赦され、新生する。即ち神の子とされるという奇跡が生じます。神を信じるということは、歩けなかった人が歩けるようになった事だけではなく、例え肉体的不自由が除去されなくとも、主イエスにあって力強く生きていくという積極性が与えられることも、また主にある大きな奇跡の恵みといわねばなりません(ピリピ四・一三)。