8月17日

 とある日の夕刊に掲載された亡命兵士のインタビューで、水害で食料の配給が中断された為、腹が減って我慢できず亡命を決意したと報じていました。人間誰しも日ごとの食物がなければ生きていけません。昔、主なる神はイスラエル民族を荒野で四〇年間も、生活の面倒を見られました(出エジプト一六章、ネヘミヤ九・二一~二五)。そのように天の神は、「私は、乏しいことがありません」(詩篇二三・一)と告白させて下さる方でもあります。
 けれども人間はこの愛と憐れみ深い神、全知全能の神が信じ切れないで不安・心配ばかりしています。故に明日のことを心配するのは止めなさいとも主イエスは仰せられました(マタイ六・三一)。そして、日毎の糧を今日も与え給え、と祈りなさいとも教えて下さっています(マタイ六・一一)。
 しかしながら単に食物のみならず、生活上の全ての必要性があれば、マタイ七・七では「求めなさい。そうすれば与えられます」とも約束下さっています。「祈る」手段がクリスチャンに与えられていることはなんと幸いなことでしょうか。神に、キリストに大胆に「ください」と祈ろうではありませんか。「ください」と言うことは乞食根性のようで嫌だという人もいるかもしれませんが、神はむしろわが子が何もねだらない事のほうを淋しく思い、遠慮ばかりしている子を心配なさるのです。二人の盲人のように「主よ。私たちをあわれんでください」と叫びましょう(マタイ二〇・二九~三四)。