8月14日

 昔は神経衰弱と言いましたが、この頃はノイローゼと言います。考え過ぎに原因があるように思います。考えなさ過ぎるのも困ったことですが、思うことも過ぎるとダメです。結局、考えなくてもいい時に、本当は日々の与えられた労働に打ち込まなくてはならない時に迄、余計な思いの虜(とりこ)になってしまう所にも原因があるのではないでしょうか。考えずにすむことなら、考えないでそのままにしておく、どうしても必要に迫られて考えざるを得ない時だけ考える、そのようにしたらいかがでしょう。
 将棋を指す時、「下手の考え、休むに似たり」という言葉を使います。人生途上いくら考えてもどうしょうもない時には主イエスに寄り頼むより外に手段はないのです。イエスは申されました。「だから、あすのための心配は無用です」と(マタイ六・三四)。主イエスは、私どもの天の父はわたしたち各自、何が必要であるかをご存じだというのです。主に知られている自分であることを覚えて、考え過ぎないよう、全てを聖書の神にゆだねて進みましょう。
 「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ六・三〇~三一)