7月19日

 贖罪者イエス・キリストには「罪は別に何も見つかりません」(ルカ二三・一四)、「死罪にあたることは何一つしていません」「死に当たる罪は、何も見つかりません」(同一五、二二節)というのが本当です。ヘブル書の著者も四・一五で、「私たちの大祭司(イエス)は…罪は犯されませんでした」と明言しています。ペテロ第一の手紙三・一八では「正しい方が悪い人々の身代わりとなった」と記しています。
 無罪の主イエスは当時のユダヤ人の不信仰と嫉妬、誤解の故に死刑と宣告され、十字架につけられてしまいました。しかし、この十字架死こそ我々人間の罪を赦し、清めるための神がとり給うた一大手段であったのです。
 前記ペテロ書ははっきりと「罪のために死なれました」と言っています。自分の罪のためではない。他者つまり不信仰の人間の罪のためであります。ヘブル書も、「罪を取り除くために、来られた」(ヘブル九・二六)、「多くの人の罪を負うために」、「人々の救いのために来られるのです」(同二八節)と伝えています。
 無罪者イエスが、十字架に付けろとわめき叫ぶ民衆の声に押されて、赦されることもなく死んでゆかれました。「その声が勝った」(ルカ二三・二三)のです。けれども敗北に見えた主イエスの十字架は、実は神の栄光を現わされる勝利の事柄だったのです(ヨハネ一二・二三、一七・一、四他)。