7月18日

 ジョン・カルヴァン(中世宗教改革者、一五〇九~六四)は言いました。「キリスト教の重要徳目は第一にも第二にも第三にも『謙遜』です」と。人には誰しも系図自慢、自画自賛、うぬぼれ、肩で風を切る(得意絶頂で誇る様子を言う)所があります。ですから聖書は「謙遜でありなさい」(第一ぺテロ三・八)と教えます。パウロも自己放棄、支配欲の放棄を目指して祈り、努力しました。
 使徒二〇・一九ではミレトでのお別れの際に、「私は謙遜の限りを尽くし」と証ししています。モーセも民数記一二・三によれば謙遜な器でした。詩篇一三一篇によるダビデの告白にも教えられます。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。…まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります」(一~二節)。
 所が、ウジヤ王は自分が勢力的に強くなると、彼の心は高ぶり、不信の罪を犯して、遂に身に滅びを招いたのです(第二歴代誌二六章一六節)。また、ヒゼキャ王も臨終の際、助けられて長命を許されるや、心高ぶらせ失敗しております(同上三二章二五節)。私たちも要注意。謙遜は、神への服従と自己の抑制、自制心から神と人に仕えようとさせます。わがまま勝手な気持ちではなかなか謙遜にはなれません。なお、高ぶりを砕かれていきたいものです。