6月27日

 聖書の神は、私達を祝福して下さる神であります。パウロもエペソ書冒頭の挨拶文の中でこの点にふれています(エペソ一・三)。人類歴史は様々な視点でとらえる事ができますが、聖書で見る限りそれは、救いの歴史、神の祝福の歴史としてとらえねばなりません。創造者である神の人間に対する基本的態度は「愛」であり、その現れが祝福なのです。
 まず天地創造の時点において、「神は彼らを祝福された」(創世記一・二八)とあります。そして神は動物と人間とを祝福して、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(同上一・二八)と言われました。堕罪後、蛇や土は呪われていますが(同上三・一四~一九)人間は呪われていないのです。もちろん労働や出産の苦痛は伴いますが、命は次世代へと受け継がれてゆくのです。
 確かに人類史は、神への反逆とその結果自らに招く神のさばきのそれではありますが、しかし、主なる神はその後、アブラハムを立て、彼を「祝福の基」(口語訳)、「祝福の源」(新共同訳)(創世記一二・二)とし、「信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受ける」(ガラテヤ三・九)ように、また、アブラハムの祝福がイエスによって異邦人に及ぶようにして下さったのです。
 しかしその為に主イエス・キリストが木にかけられて死なねばなりませんでした(同上三・六~一四)。神からの祝福がこのような神の御子イエスの犠牲を伴っていることを覚え感謝しましょう。