6月26日

 「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」(ヘブル二・九)
 イエスが死の苦しみを経験されたのは、他でもない私たちのためでした。ここには死の語が二回もでています。彼が受けた御苦しみは、肉体的、精神的両面のお苦しみでした。
 茨の冠をかぶせられ、つばきを吐きかけられ、なぐられ、槍をさされ、両手は太い釘で打たれ、おまけに、ののしられました。どれほどの苦痛だったでしょう。想像に絶するものがあります。
 またイエスはゲッセマネの園で、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マルコ一四・三四)と言われましたが、その時のお気持ちもまた察するに余りある物凄く深いものだったでしょう。ところがその苦痛と最後の死は全部あなたの、わたしの罪のためであったことを知るとき、改めて愕然とするのです。
 「罪から来る報酬は死です」(ローマ六・二三)と、聖書は告げています。人が犯した不信仰の罪、そこから派生するところの様々な罪の結果が、永遠の死、滅びであるその状況から全人類を救わんとして、イエスは断末魔の苦しみを苦しみ、身代わりの死を遂げて最期の敵である恐るべき死を滅ぼしてくださったのです。ここに真の神の愛があります。