5月25日

 ヨハネ福音書第一章一四節に、「私たちはこの方の栄光を見た」とありますが、この方とはイエス・キリストを指します。ヨハネは一節からことば(ロゴス)として、また、光としてのイエスが受肉したことを論述し、引き続き、その方の栄光を見た、すなわち「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(同節)とあかししています。
 ヨハネは、私たちのうちに宿ったところの栄光を見た、という時、旧約の幕屋を思い起こします。「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」(出エジプト四〇・三四~三五)同じように「ことば」(ヨハネ一・一)、ロゴスであるイエスがこの地上に出現した時、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちは(ルカ二・八)、主の栄光をみて、ひどく恐れました。主の栄光は、神の威光、臨在をあらわすとすれば、キリスト再臨の際の臨在感は私たちに大きな恐れを与えるものと思われます。
 冒頭のひとり子としての栄光とは何でしょうか。イエスの奇跡とみるもの(ヨハネ二・一一…公生涯最初のカナの結婚式における奇跡)、或いは十字架また昇天と理解するもの、変貌(マタイ一七・一以下)の際における栄光を強調するものなど、いろいろです。