5月17日

 二一世紀の時代に日本という国でキリスト者として生きるようになっている者たち。聖書の言葉を唯一の真理と信じて宣教の愚かさに徹しようとしている私たち。けれども実際に私たちが日毎の体験として見聞きするのは「キリストの主権」などとは全く関係がないように動いているこの世の中であります。ひとり立ちした科学・技術の独裁、コンピューターによる管理、およそ真実などというものを期待することも出来ないような世俗世界の流れ、貪欲な経済システム等の姿です。
 こうした中で「イエスこそ復活の主です」ということは、真に空しく響き渡る声のようにも思われます。しかし私たちは自己否定に徹して洗礼者ヨハネのように「燃えて輝くともしび」(ヨハネ五・三五)としてひたすら「あかし」を為してゆきたいものです。
 けれども、私たち以上に父なる神も主イエスについて証をされているのです(同五・三七)。又、イエスが行っておられた業そのものが(同五・三六)さらに、聖書(旧約聖書)(同五・三九)が、すなわち預言も歴史も教訓もみなキリストについて証しています。マタイ福音書中にある「聖書が成就するため」(マタイ五・一七等)の言葉に注目したいと思います。聖書によってキリストを知るために、私達は聖書を読み、信じ、受け入れるのです。
 このように復活のイエスの証しは、ヨハネが、父なる神ご自身が、イエスのわざが、旧約聖書が証言していますが、現代の私たちも証ししていかねばなりません。