4月6日

 「弟子=ディサイプル=Disciple」は[師]に対応する語で、旧約にはイザヤ八・一六に一回登場します。新約聖書には二六九回、福音書と使徒の働きに限定されて用いられています。その中、ごく少数の個所では「ヨハネの弟子」(マタイ一一・二、マルコ二・一八)、「パリサイ人の弟子」(マタイ二二・一六、マルコ二・一八)という語もありますが、大部分それは「イエスの弟子」であります。
 彼らは身も心も主イエスの人格に結びつき、その使命達成のために従って行った者でした。けれどもイエスの直弟子一二人(マルコ三・一三~一九)だけが弟子という訳ではなくて、イエスを信じ、イエスの感化、教育、訓練を受けようとする者は皆イエスの弟子でした(ヨハネ六・六〇~六六、ルカ六・一二~一三、使徒六・一)。なお、イエスは弟子としては何か知的に特別すぐれた者を召したのではなく、むしろいやしい者、罪人、取税人たちを召したまいました。
 今日でも、キリストのことばを受け入れ、従おうとする者、即ちキリストの言葉にとどまっている者は誰でも「主の弟子」なのです。「弟子」という考え方の中には、人格的な献身(口先だけでなく)、証し人、しもべという三要素が含まれています。また、使徒の働きでは、イエスをメシヤと告白する全ての人びと即ちクリスチャンを弟子(「兄弟」「信徒」と同義語)としています。