4月19日

 「しかしふたりの目はさえぎられていて」(ルカニ四・一六)。このさえぎると言う言葉は、固くつかむ、しっかり捕らえる、或いは強制するという意味の動詞です。イエスの十字架の出来事を経験した弟子たち二人は、そのいまわしさから一刻も早く逃れようと、エマオヘの道を急ぎます。道すがら、自分たちがメシヤだと期待して従ったイエスが、事もあろうに十字架の死という悲惨な死を遂げたことを悲しみつつ語っていました。
 その時復活の主「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩」かれたのです(ルカニ四・一五)。しかし、悲しみと失意に心を閉ざしていた弟子たちの目は「さえぎられ」、復活の主を認めることができませんでした。何故でしょうか。弟子たちの心は空っぽになった墓だけに集中していた、捕えられていたからであります。即ち、過ぎ去ったことにこだわり、強くそこから一歩も出ようとしない姿勢にありました。ですからそこに誰が立っているかがよく分かりません。
 どうして屍がなくなったのか。どうして墓が空になったのか。その事で胸は一杯でありました。それがさえぎりとなって、ここにイエスが立っておられることを全く認められなかつたのであります。私たちも過去にこだわり、うしろ向きに生きる事のないように十分注意したいものです。信仰をもって生きておられるイエスを捕えましょう。