4月15日

 この世の中には昔も今も自らの体の一部にいわゆる障害(この単語を使用する事自体に批判がある時代ではありますが使わせて頂く)をおもちの方々は少なくありません。その原因についてキリスト在世当時、弟子達はイエスに尋ねました。罪の結果そうなったのかと。その答えは有名な「神のわざがこの人に現れるため」(ヨハネ九・三)の一言でありました。ではその神のみわざ、神の栄光が現れるためとはどのようなことでしょうか。
 即ち、その障害故に常人では到底味わえぬどん底の苦痛の結果、遂には自殺まで考えざるをえない所まで追いつめられた人間が、イエス・キリストとの出会いを契機として救われ、絶望から希望へと、悲しみは喜びへと、呪いと不満は感謝の祈りへと大転換していったことを指すのです。更には積極的に他者に対し、自ら身をのり出して実際的に何の助けの手を差し伸べられないとしても、ただ一つ「祈り」の手段をもって執り成しの祈りの勇者となり、あるいは、さらに伝道者となって福音を伝えて神と人に仕えていくことなどが、主の栄光を現すことになるわけです。