4月1日

 イエス・キリストは幻影でもなければ、単に人のように見えた幽霊のような方でもありませんでした。ダビデの子孫として「女から」すなわち処女マリヤから生まれた(ガラテヤ四・四、マタイ一・二一)、歴史上の「ひとりの人」で(ローマ五・一五)、私たちと少しも違わないこの地上に生存した方なのです。ですから私たちと同じように成長し(ルカ二・四〇、五二)、人々と共に飲食し、ある時には空腹を覚え(マルコ一一・一二)、疲れ(ヨハネ四・六)、眠り(ルカ八・二三)、涙を流し(ヨハネ一一・三五)、怒り、嘆き(マルコ三・五)、悲しみ(マルコ一四・三三、三四)、いつくしみ(マルコ一〇・二一)、愛し(ヨハネ一一・三)、祈り(マルコ一・三五、マルコ一四・三五)、最後は十字架につけられた(マタイ二七・三五)間違いなく受肉された方であります。
 ただ私たち人間と違うところは、色々と試みられましたが少しも負けず、罪に陥ることはなく、罪とは全く無関係という点であります(ヘブル四・一五)。この神の独り子イエスは、人としては私たちと少しの違いもありません。ですからイエスは幻影でもなく、架空の想像的人物でもなければ、神話の中の一人物でも無いのです。イエス・キリストはどこまでも歴史と時間の中に生きた純然たる一人の「人間」として、しかも全人類の救い主としてこの世に存在されたのです。