3月29日

 「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。」(ヨハネ一九・二八)
 イエス・キリストは十字架上にあって、他の処刑者達と同じように激しい渇きの苦しみを味わわれました。わたしたち人間の罪を処分し、贖うためにイエスは燃えるような激しい渇きも体験されました。イエス・キリストの舌は本当に間違いなく苦痛を味わったのであって、決して架空なこと、だれかの作り話でないことは福音書記者ヨハネも証言しているところです。スコットは「キリストが渇きで苦しまれたのは、私たちが永遠のいのちの水を飲むことができ、もはや渇くことがないように、というためであった」と述べています。現実に主イエスは人間としてこの世に現れ、最後は人間として受難死、贖罪死されたことを強調し記録しています。
 ところが当時ヨハネがこの福音書を書いた紀元一〇〇年頃には、グノーシス思想がはびこっていて、イエスの人間性を否定していたのです。すなわち純粋な霊なる神は、ご自分に体をとるはずがない、体などもっていなかった、イエスは神の霊が人間の形になつた幻影であると主張していました。大いなる間違いです。幻影どころか痛みも、かわきも分かるこの世の人でありました。そして、何よりも「救い主」であったのです。