3月26日

 私達キリスト者はしばしば批判の矢面に立たされます。例えば「偽善者だ、口先だけだ、上べだけつくろっている、聖書を聞くだけで実行が伴っていない、二重人格者だ、実際生活を見ているとつまずく、クリスチャンと言ったって大したことはない」などなどです。しかし、くじけてはなりません
 私達は完全人ではないのですが、完全を追い求めています。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ五・四八)全き善人ではありませんが、善を追求しているのです。聖書の要求している高い標準、水準を歩んでいないかもしれませんが、何とかそのスタンダード=標準に到達したいと、もがきつつ、精神的責めを感じながらも絶えず祈りつつ努力している者たちであります。即ち、我が身を打ち叩いて従わせ(第一コリント九・二七)ようと前向きなのです。
 所が、始めから人間は弱く、悪であり善人ぶる事はそれこそ偽善者だと称して、全く完全性を、また清さも善も追求しない諦めの世界に身を委ねている者とは全然違うのです。とかく悪しき風評を立てられる事は辛くあっても、パウロの様に「ただ捕らえようとして、追求している」(ピリピ三・一二)姿勢をくずさないように聖霊に満たされ、雄々しく前進しようではありませんか。