3月14日

 盲人バルテマイ(マルコ一〇・四六~五二)は盲目の目を開けてもらうため必死でありました。このチャンスを逃してはならないと思いました。ナザレのイエスだと聞くと「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めました(同四七節)。しかし、無理解な人々は物ごいの出る幕ではないと言わんばかりに、黙らせようとし、阻止するのでした(同四八節)。何という憐れみのない態度でしょうか。これでは渡る世間は鬼ばかりといった状況であります。
 けれどもこの一人の男は黙ってはいませんでした。ますます叫び立てたのです。千載一遇のこの機会を失っては、もはや救いも癒しもないであろうと考え、彼は誰が何といっても聞きませんでした。いよいよ「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び願い続けたのです(同四八節)。
 現代のキリスト者の祈りもこのような、熱心、熱意の込められた叫び、祈りでありたいと思います。どれほどに拒否されようと、妨害されようと霊に燃え、望みを抱いて喜びつつ、絶えず祈りに励みたいものです(ローマ一二・一一~一二)。
 ことわざの、「念力、岩をも透す」、「石に立つ失」の語を思い出します。虎と見誤って必死に射た矢が石を貫いたという中国史記の李将軍伝のように、私たちクリ スチャンは全力を傾注して祈って事にあたればどんな難事も必ず解決するのではないでしょうか。