2月4日

 主イエスの弟子になるには、必ずしも何か秀れた人間である必要はありません。この師弟関係は知識の伝受だけによって成立するものではなく、またこの事が最初に行われるものでもありません。
 主イエスは先ず、「わたしに従ってきなさい」という命令を発しておられますが、この従うという動詞は、福音書ではいつもイエス自身に対する文字通り「服従」を意味していました(マタイ八・一九~二二)。イエスに従うとは過去と絶縁することであり、特に真の弟子となるためには完全に縁を切る必要があります。イエスに従うとは、救い主である彼の生き方を真似して自分の行動を彼のそれに合わせ、彼の教えに耳を傾けることにほかなりません(マルコ八・三四~三五、一〇・二一、四二~四五、ヨハネ一二・二六)。
 ユダヤの弟子は、律法を習得し終われば師を離れて自分で教えることが出来たのですが、イエスの弟子はこれと違い、教義ではなく人格そのものに結ばれており、父母以上に深い関係をもつようになった師から離れることはできませんでした(マタイ一〇・三七、ルカ一四・二五~二六)。ですから、イエスの弟子は師と運命を共にします。すなわち、師であるイエスの十字架をにない、彼の杯を飲み、遂には彼からみ国を受けることになっているのです(マタイ一九・二八~二九、ルカ二二・二八~三〇)。けれども、広い意味で全てのクリスチャンが弟子として彼に従っていきたいものです。