2月20日

 忍耐(ヒュポモネー)は旧約聖書では「待ち望む」ことです(詩篇二五・三、五。イザヤ四〇・三一)。新約聖書の中でも高尚な語の一つです。
 新約聖書では、(一)艱難と結合して(ローマ五・三、第二コリント六・四、第二テサロニケ一・四)、(二)信仰と結合して(ヤコブ一・三)、(三)希望と結合して(ローマ五・三、一五・四~五)、(四)喜びと結合して(コロサイ一・一一~一二)用いられました。(五)一番多いのは永遠の栄光やいのちと結合しているもので、用例は多過ぎて全部は引用できないほどです(ルカ二一・一九、ローマ二・七、ヘブル一〇・三六、一二・一、第二テモテ二・一〇、一二、ヤコブ一・一二、五・一一)。
 主にある忍耐は、座って頭を垂れ、一風が過ぎ去るまで受動的にただじーっと耐えるのが忍耐ではありません。キリスト信仰を持って、明日への夜明けを待つ輝く希望の伴った忍耐です。旧約聖書のヨブも絶望の情況下で、パウロもまた逆境の只中で、初代教会時代のクリスチャンたちもみな、苦痛の彼方にある希望と喜びに満ちあふれつつ耐えていきました。あきらめ、沈黙、つぶやきと他者への嫉妬心そして悲哀感の中ではなく、讃美と歌声とキリストにある希望の中で私たちもまた耐えていこうではありませんか(使徒一六・二四~二五)。そして日本の伝道も忍耐の一字をもってさらに続行して参りましょう。