2月16日

 「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、『キリストの苦しみの欠けたところ』を満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」(コロサイ一・二四)
 上記の二重かっこの中の言葉は、私たちを贖うために受けられたキリストの肉体的苦しみが不十分であったというのではありません。なぜなら贖いの苦しみは、キリストが十字架上で死なれた時点で完結したからです(ヘブル一〇・一四)。
 ではその意味するところは何でしょうか。すなわち、教会メンバーの苦しみがまだ不十分ですから、パウロは自らその苦しみを獄中で受けて喜んでいる、と言っているのです。キリストの為に受ける苦しみがまだ私なりに足りないので、その欠けたる所を満たしていると告白しているのです。このようにこの世に住むキリスト者は多くの苦しみを通って、成熟した大人になり、「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」のです(エペソ四・一三)。
 初代教会の弟子たちのように私たちも主のために、教会進展のために苦しみつつも、なお、「喜びと聖霊に満たされた」(使徒一三・五二)状況でありたいと思います。信仰生活は、ただ楽しい面ばかりではなく、当然ながらクリスチャンである故の辛さ、苦しさも味わいますが、感謝なのです。