2月1日

 「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラテヤ六・九)
 教会の使命は福音伝達、伝道、宣教にあります。しかしこの一事は善事であります。この善事にたずさわることに飽くなとパウロは申します。なかなか人々が救われて参りませんと、もう止めようかという誘惑に駆られるものです。でも失望せずコツコツと日本伝道に従事していくとき、必ずや主は実を刈り取らせてくださるでありましょう。ただ時期を待つ、収穫の時を待つ必要が生じるわけです。
 明治のキリシタン禁制の高札がおろされて(一八七三年=明治六年)一世紀以上が経過しました。かつての古代ローマにキリスト教が根をおろすまでに三世紀を要しました。ひたすら結果、効果だけを計算することなく、時が来れば主の約束の如く喜びの声をもって束をたずさえて帰ってくる(詩篇一二六・六)ことを確信して、ひたすら善事に励もうではありませんか。善を為すに結果を考えず、結果は主にのみお任せして、善事をなすのが私たちの義務であり、特権であり名誉であることを自覚して、これからもさらに信仰をもって前進したいものです。「私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」(ローマ一〇・一)