1月27日

 創造主なる神に対してイエスの御名で祈ることは、クリスチャンにとって当り前のことですが、しかしこの祈りが本当に一つの事柄にこだわって飽くことなく、ねばり強くしつつこく、どこ迄も失望することなく、気をおとさずに、また意気消沈することもなく、祈り続けられているかというと少々疑わしくなります。
 諸兄姉は家族、親戚、知人、友人のために的を絞って祈り続けておられるでしょうか。祈っても聞かれないとあきらめて途中で止めてしまいます。しかし、そこでも止めないで、あきらめないでうむことなく、あくことなく祈り続けよとイエスは一人のやもめの例を出して励まして下さいます(ルカ一八・一以下)。ここでは祈りを簡単にほうり出すなということです。いつでも、どこでもあきらめないで祈り続けなさい、といわれます。神は愛であり、義なる神です。悪い不義なる裁判官でも日夜叫び求めれば聞いたとすれば、真の神が聞いてくださらないはずはありません。
 ですから聞いてくださるという信仰を持ち続けましょう。「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(同上一八・八)とも問うておられます。
 家族の救いのため、教会内各部活動のため、広くは各地域のリバイバルのためなどさらに失望しないで祈り続けましょう。祈りと信仰は不可分離の関係にあります。