1月24日

 「荒野」口語訳、「へんぴな所」新改訳(マルコ八・四)という言葉が、少なからず聖書に出てきますが、(申命記一・一九、二・七、八・一五、詩篇一〇七・四~五)今回の聖地旅行に参加し(一九九三年三月)、その状況、風景に接して、その単語のもつ意味がどんなに厳しいものかを身をもって体験させられました。
 特にエジプトのカイロ市からイスラエルに向かって、一路百キロのスピードで涯しなく続く一本の道路を進んだのですが、行けども行けども草木などほとんど見当たりません。左右両側の景色と言えば、川原、砂地、砂利、赤茶けた土など様々な殺風景な地質が目に飛び込んでくるだけです。緑豊かな日本では到底考えられない光景です。エジプト市内をガイド下さった方は、日本国関西の甲南大学を卒業されたのですが、来日されてまず驚いたことは、樹木の多さとその緑が豊かということだったそうです。
 そうした荒野の光景が広大なシナイ半島全体だから驚きです。昔、同じ所を旅したイスラエルの大群衆を養われた神は真に人間の知恵では考えられない大いなる神であります。不毛な地にあってただ頼るは神が送り給う天から降ってくるマナだけでした(出エジプト一六・三一~三五、民数記一一・四~九)。つぶやきのイスラエルの民を四十年間もマナで養われた神は、また私たちの神でもあります。