1月23日

 キリスト者は日曜礼拝が終るとこの世に派遣されていきます。そして生活の場でキリストを伝え、キリストを証ししていきます。けれどもその宣教、伝道のエネルギーはどこで養われ補給されていくのでありましょうか。やはり「礼拝会」の中であります。その礼拝が参加した者にとって「我ここに居るは良し」といった程のいわゆる満足、充足したものであれば、よし出ていって主の為にやるぞと言った気持ちになるでありましょう。しかしその反対で何の力も、喜びも、感激、感動も覚えないマンネリ化した中での礼拝であれば、ロケットを噴射、発射させるあのエネルギーのようなものは失われているのです。
 ではどのようにして私たちの霊性は養われ、満足し、喜び、明日への力強いダイナミックなものとなっていくのかを問うてみますと、思うにペテロ、ヤコブ、ヨハネ達が祈る為に山へ登った時、栄光のイエスに出会った時の感激が、「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです」(マタイ一七・四)と言わしめた、 あのイエスの臨在経験ではなかろうかと思います。
 御聖霊の力に満たされ押し出されていく前に、まず礼拝の場での主イエスがここに、また我がうちに在すといった「主の臨在体験」に満たして頂こうではありませんか。そのためにしつかりと御言葉を傾聴し、祈らねばなりません。