1月22日

 先日信号待ちをしていますと、『犬を探しています。発見者には一〇万円を差し上げます』という張り紙が目につきました。しかし、その犬は耳が聞こえず、老犬だというのです。でも飼い主にとってそれは本当に愛すべき大事な犬だったのでしょう。だからこそそのような大金をかけてでも何とか探し出してもう一度自分の手元で可愛いがりたいと願っているのです。そのように天の父なる神様も、今日も今日とてキリスト様を信じていない迷える小羊のような人間一人びとりに深い愛着をもって、探し求めておられる訳です。
 その事情をたとえで説明したものに新約聖書ルカ福音書一五章があります。きよい神様から見れば汚れた罪人の人間などは、前記の老犬のように一見無価値にみえますが、しかし、無価値どころが最愛の対象として私たち各自を一〇万円どころか、計算、換算もできない程のイエス・キリストのいのちを犠牲にして、愛し探し求めておられるのです。さあ、改めて聖書の神様に帰って神の子となろうではありませんか。
 世俗の世界はいつの時代もどれだけ、何が出来るかでその人の価値が決められてしまいます。ですからハンディキャップを負っていて機能面で十分でない方などは、役立たない者として冷視されがちですが、主は差別することなくむしろこよなく愛して主にあって貴い価値あるものとしてくださるのです。ハレルヤ。「主はこう仰せられる…わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ四三・一~四)