1月21日

 ヨハネ一七・一における主イエスにとって「時が来ました」とは、弟子たちと別れる時すなわち十字架につく時が到来したことを表しています。換言すれば、地上のイエスと弟子たちとが直接的に親しく交わることのできる時は終って、今や「見ずに信じる」(同二〇・二九)信仰の時に移っていく時がきたことを云われているのです。これは同時に試みの時(同一二・二七)であり、またイエスを「ひとり残す時」(同一六・三二)独りぽっちにする時でもありました。それよりも何よりも「栄光を受けるその時」(同一二・二三)とは、上記のように十字架上で死すべき厳粛な時がやってきたというのです。さらには十字架による天への帰還の時であり、子なるイエスが栄光(ドクサ)を現すと同時に、父なる神の栄光も現される時でもありました(同一七・四)。
 栄光とは、もともと「重さ」を意味し、さらに実質、富、名誉、名声を意味していました(詩篇四九・一六、イザヤ六六・一一以下)。しかし一番重要な用法は、神の臨在の目に見える光輝という意味です(出エジプト一六・一〇、第二コリント三・一八、四・六)。主イエスの十字架上の死の様態だけを見て敗北だと断定する未信者のようであってはなりません。むしろ十字架は神の臨在の栄光を見る時だったのです。