1月15日

 最近多くの人々が毎日ディボーションすなわち静思の時を持ち、自ら聖書を学ぶことによって、私たちの救い主イエス・キリストに対します。愛と知識において成長していくのを見るのは、牧師の私にとって大きな幸せです。ディボーションと個人的な聖書勉強がどのように違うのかと聞く人が有るかもしれません。確かにこの二つの間には共通の部分が多いのも事実です。両方とも聖書の勉強と祈りを含んでいるからです。しかし、簡単に申しますと、ディボーションとは日々における神様との交わりの時間を意味し、主なる神様と出会う時間です。
 個人的な聖書勉強とは、特別に聖書の研究を意味していると思います。ディボーションとは聖書のみことばを通して神様が語られる声に耳を傾け、祈りの中で神様に話すことです。毎日、朝と夕方に祈りの時間を持つことで十分だと思うかもしれませんが、詩篇八一・一三には主なる神様は御自身の民が御自身に耳を傾けることを願っておられると、記されています。神のみ言葉に対して黙想なしに、自分の祈りばかり一方的に捧げるというのは、神のみ心を知ることより自分の考えを押し付けるものであり、そういう場合主は私たちの祈りに答えられません。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ」(第一ヨハネ五・一四)です。注意したいものです。